僕が信仰する宗教には、各教会単位で青年部というものが存在する。
そこでは同じ信仰を志す若い世代の男性が集まって、色々な企画を考えたり、一緒に教会の用事をしたりする。
しかし最近はコロナということもあり、なかなか集まって何かをするということも無くなってしまった。
そんなある日、会議をするために青年部がZoomで集まった。
話し合いは円滑に進み、1時間ほどで終わったのだが、その後後輩からラインがくる。「個人的にもうちょっと話したいんですけど、Zoom再接続していいっすか」と。時間もあったので了解して、Zoomに入り直した。
そこから話されたことは、言うなればしょうもない話だった。
「会議中に〇〇君がタンブラーで飲んでいるのは、ひょっとしたらビールじゃなかったか」とか。
「というか、お前のソファはそれ、王様が使うタイプのソファだから会議感がないぞ」とか、とにかく他愛のない話だった。
でもそれが楽しかったし、ムダだとは思わなかった。
時間にして20分ほど話をしたて接続を切った。
その後、ある病院の先生のことを思い出した。
娘がお世話になっている、小児科の女性の先生だ。
2年ほど前の寒い時期に、娘の予防接種のために病院にいった。
注射を打って泣きわめく娘を抱えながら、待合室で待っていると、僕の前にピンク色の髪をした若い女性が座った。
田舎で暮らしているので、周囲にそういう髪色をした人がいないこともあり、非常に目立っている。数分後その女性が、呼ばれて立ち上がり受付に行った。
小児科だが、子どもはおらず一人だったこともありなにやら受付の人と楽しそうにおしゃべりしている。
そんなことをしている間に、主治医の女性の先生が廊下に出てきた。
実のところ僕も小さい頃はこの先生にお世話になっていたようだ。
年齢はそろそろ60くらいだと思われる。
この先生は、町のお母さんたちに非常に人気だ。
妻もいい先生だと言っていたが、僕はあまり関りがないので分からない。
しばらくすると、その先生がピンク色の髪をした若い女性に話しかける。
「今日は雪大丈夫だった?」
「え、うん、全然大丈夫」
「あら、それは良かった、結構降ってるから気をつけてね」
何気ない会話だったが、なんというか心を打たれた。
先生とその若い女性は、年齢差がだいぶある。
本来、敬語を使ってもいい場面ではあるが(こんなことを言っている僕は古い人間なのだろう)、先生はそんなことお構いなしだ。
気さくに話している。
喋り終わった後には、僕の方にも寄ってきてくださり、隣でまだ泣いている娘に「よく頑張ったね」といって飴ちゃんをくれた。
その後は、先日娘に出た蕁麻疹の話などを少しして、診察でもないのに相談にのってもらった。
何気ないことだが、それが嬉しかった。
こういうところに、「良い先生」と呼ばれる理由があるのだろう。
臨床心理士の東畑開人は、最近増えたオンライン会議が終わった後、一瞬でその場を退出する寂しさに焦点をあて「廊下」の重要性を話している。
廊下が足りていない。
教授会の終わりに「今日もあの教授のカラオケ最高でしたね」とか「マラカス鳴らそうかと思ったぜ」とか、廊下で愚痴りあうのが楽しかった。
雑談も陰口も密談も全部廊下での出来事だった。
事件は会議室でも現場でも起こるけれど、人間らしいことは大体廊下で起こっていたのである。
(東畑開人『心はどこに消えた』66頁)
先生の診察は、現場である診察室で行われる。
しかし人間らしいことというのは、あまり診察室では起きない。
そこにあるのは、血液を採取したり、胸に聴診器を当てたりといった業務的なことがメインとなる。
これは病院に限ったことではない。
宗教家だって一緒ではないか。
教会やお寺で、信者さんを相手にお話をすることもあれば、冠婚葬祭を執り行うこともある。
そんなとき、僕自身、それだけで役目を果たしたような気になっている。
しかしそれだけでは一人の信仰者としては不十分なのかもしれない。
本当に大切なのは、現場ではなく廊下なのだ。
廊下というのは少し抽象的な表現だからもう少し具体的にいうと、普段の付き合いとでもいえようか。
参拝に来られる信者さんとの何気ない会話であったり、ちょっとそこまで来たので、神さまにお供えしたリンゴもってきました。
そういったことの中に、人間らしいことが現れてくるのだと思う。
ただ、冠婚葬祭をするだけが信仰者の役目ではない。
小児科の先生のように、周囲の人に目を向けられて、廊下を大切にできる信仰者に、僕はなりたい。
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