新婚の妻が泣いた理由
妻が泣いた。
それはまだ結婚して間もない頃の話だ。その日、僕たち夫婦は信者さんのお宅に行くことになっていた。仏教でいう「法事」的なものをつとめるためだ。
まだ慣れない僕たちは、車で片道3時間ほどかけて信者さん宅まで行き、お祈りをしたあと、信者さんの家でご飯をいただく。初めて二人でお宅に伺ったので、いろいろと準備をしてくださり、和やかな時間を過ごすごとができた。
お昼すぎには信者さんの家をあとにした。
帰り道、別の信者さんが入院されていたので、その方のいる病院に二人で顔を出すことに。その方は90歳になる高齢の男性(Rさん)で、1か月ほど前に肺を悪くして入院されていた。
僕にとっては昔からなじみのある、優しいおじいちゃんだ。
病院に着いた時には、すっかり暗くなっていた。
面会に行くと、Rさんは横になっていた。起き上がろうとされたので、慌てて止めたが、それでも起き上がって笑顔で会話をしてくださった。
あまり長居しては体に障ると思い、ここでもお祈りをさせてもらって、帰る準備をする。
その時、再び横になられたRさんが妻に「今日はどこへ行ってたんだ?」と聞かれたので、「○○さんのお宅に結婚の挨拶とおいのりをしに行っていました」と答えた。するとRさんは「そうか、それは大変だったな」と一言。
別れを告げた後、僕たちはまた車に乗り、自宅まで向かった。
その病院からの帰り道、助手席で妻が泣いていたのだ。
話を聞くと、Rさんから言われた一言が本当に嬉しくて、ありがたかったのだと教えてくれた。「そうか、それは大変だったな」というRさん。しかし、本当に大変なのはどう考えてもRさんの方だったからだ。
自身がそんな状態にもかかわらず、まだ慣れない新婚生活の妻をねぎらう一言をかけてくださるRさん。僕はその姿に信仰の醍醐味を見た。
そして、僕の頭の中には心理学者、ヴィクトール・フランクルのある言葉がうかんだ。
信仰の価値とは何か
ヴィクトール・フランクルというのは1905年生まれのドイツの心理学者だ。ユダヤ人というだけで、第二次世界大戦中に、ナチスにより強制収容所に入れられていた。その体験を、戦後に『夜と霧』という本にしているので、ご存じの方も多いのではないだろうか。
そんなフランクルが、「人生には三つの価値」があるのだという。
スティーブン・コヴィーが書いた『7つの習慣』という本の中で、その部分をまとめたものがあるので、引用する。
ヴィクトール・フランクルによれば、人生には三つの中心となる価値観があると言う。一つは「経験」、自分の身に起こることである。二つ目は「創造」であり、自分でつくり出すものの価値だ。そして三つ目は、「姿勢」である。不治の病というような過酷な現実に直面したときの反応の仕方だ。(『7つの習慣』スティーブン・コヴィー 86頁)
今回、Rさんが僕たちに示して下さった価値は、3つ目の「姿勢」ではないかと思う。
不治の病ではないが、自分が過酷な状況にあるのにも関わらず、妻にねぎらいの一言をかけて下さった。信仰的な考え方により、それが言葉や態度となって現れ、妻の気持ちに寄り添ってくださった。
運命を決めるのは、自分自身
人間、病気になるという運命には抗えない。
もちろん食習慣を改善していたらとかそういうことはできたとは思うが、世の中には自分の力だけではどうしようもない事態があることは事実としてある。
そこで考えたいのが、その運命をいかにいきるかということは、自分自身にかかっているということだ。
心理学者の河合隼雄は、抗えない運命のことを「楽譜」にたとえています。以下引用する。
筆者は、運命はある、と考えるのが好きな方であるが、われわれの人生は、そのような「楽譜」を与えられるにしろ、演奏の自由は各人に任せられており、演奏次第でその価値はまったく違ったものになる、と思っている。(『心の処方箋』河合隼雄 127頁)
Rさんは、病気なったという運命の楽譜を、明るく前向きに演奏しようとされているように感じた。
今の世の中、「信仰ってうさんくさい」とか「あやしい」という声は僕自身も聞く。実際に宗教によってはそういうところもあるだろう。
ただ、一方でこうして真摯に神と対峙して、本人が意図していなくとも、素晴らしい価値を人に与えている人がいることも知って欲しいなと思うのだ。
病気や災難ということを神さまのメッセージと捉え、前を向いて生きる。
河合隼雄のいう、運命という「楽譜」をいかに演奏するかということに繋がってくるのではないかと、僕は信じている。
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