【人によって態度を変えてしまうと悩む信仰者にオススメ】分人という考え方を紹介

教会の人
教会にいる時って、なんかマジメでいようとしちゃうんだけど、自分を偽っているみたいで嫌だなぁ。

まきのり
僕も以前は同じことで悩んでいました。そんな悩みにオススメの本を紹介します。

この記事をひと言でいうと
人によって態度を変えてしまうことで悩んでいるけど、それは自然なこと。

むしろ相手によって柔軟に態度を変えていくほうが上手くいく。

教会・お寺といった場所は建物からしても、非日常的な雰囲気があります。

そんな場所での人間関係というのも、普段とは少し違っているという方もいるのではなでしょうか。

自分自身、いつもと違う人との接し方に違和感を覚えたことがありました。

今回は、まずそんな違和感を覚えたエピソードを書いていきます。その後、オススメの本を紹介するという流れです。

まきのり
ではいきまっしょい。

目次

違和感を覚えた2つのエピソード

まずは信仰をしていて違和感を覚えた、人との接し方について紹介します。

弟の結婚式にて

数年前、弟の結婚式に参列しました。お祝いの場ということもあり、陽気に結婚式を楽しみ、そして飲みまくっていたのです。

さらに弟の希望で兄妹を紹介してもらうというコーナーでは、僕ははりきってマイクを握り、滑ることなくなんとか場を沸かすことにも成功しました。

いや~いい仕事したなぁと勝手に満足し、上機嫌でお酒を注ぎに会場をまわっていると、弟の上司の方に話しかけられました。

「さっきのマイクパフォーマンス、良かったですね」と言われ、そのまま話をする流れに。お世辞にも嬉しかった僕は、その上司の方と10分ほど弟のことを話していました。

ふと僕自身の話になり、「まきのりさんは何の仕事をされているんですか?」と質問が。

「ん~なんというか、お寺の住職みたいな感じです。宗教家なんです」と伝えました。

すると、その方はすこし驚かれて、「えっ宗教家の方って、そんなに明るくふざけてもいいんですか?」と一言。

その質問がすごく面白くて、笑ってしまいましたが、後でよく考えてみると、確かに宗教家っていうのはお堅いイメージがあるなと思いました。

ただ、いつもそうなのかというと、そうではありません。

披露宴でマイクを持てば、それなりにジョークも言った方がいいのかと考えます。
普段の生活はというと、お酒を飲みながらテレビも見ます。

これはどちらかが、嘘の自分かというとそういう訳ではないのです。

しかし、それを説明しようとなると、上手く言葉にできずにモヤモヤしていました。

あかるい先輩宗教家とのおはなし勉強会

上のような宗教家としての自分と、普段の自分に少しギャップがあるということで悩んでいるのは、僕だけではなかったようです。

ある日、オンラインで「お話の勉強会」を開催した時のことです。

これは、普段信者さんに話をするお話を、少しでも良くしようという思いから5人ほどの少人数で始まった活動です。

その時に、芸人のザキヤマさんと同じくらいのテンションと面白さをもつ、先輩の教会長さんが参加していました。

引用:人力舎公式HPより

そのザキヤマ先輩のお話の番になり、どんな話をするのか楽しみにしていると、それがびっくりするくらいお堅い話だったのです。

感想を求められたので、正直に「なんか普段のザキヤマ先輩とは全然違ったので、違和感しかなかったです。もっといつもみたいに話したほうがいいんじゃないですか?」と伝えると、「いや、俺教会ではいつもこんな感じだよ」と笑いながら言われてしまいました。

おかしい。何かがおかしい。

あんなに面白いザキヤマ先輩が、教会では嘘の仮面をかぶっているということだろうか。

ここでもそんなモヤモヤが溜まっていきます。

しかし、ある本に出会い、こうして場面場面で態度が変わっていくことが、むしろ自然なことだと気がつきました。

次章でその本を紹介します。

参考にする本の紹介

今回参考にするのは平野啓一郎さんの『私とは何か』です。

 

著者紹介

平野啓一郎(ひらの けいいちろう)

1975年、愛知県生まれ。

小説家。

京都大学法学部卒。

本書の内容

たった1つの「本当の自分」というものは存在しない。

人間には複数の顔があり、それがすべて「本当の自分」である。

「個人」をさらに細分化した「分人(分けられる人)」という発想を提唱した1冊。

分人についてざっくりと

ここからは本書のキーワードとなる「分人」について、ざっくり説明していきます。

分人とはなにか

「分人」とは何か。

本書『私とはなにか』に「分人」という言葉をひと言で著者が述べている部分があるので、引用します。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。

裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。
(平野啓一郎『私とはなにか』講談社現代新書 7頁)

これだけでは意味が分かりづらいので、もう1ヵ所引用します。

「個人(individual)」という言葉の語源は、「分けられない」という意味だと冒頭で書いた。

本書では、(中略)「分人(dividual)」という新しい単位を導入する。

(中略)

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。
恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。

(平野啓一郎『私とはなにか』講談社現代新書 7頁)

つまり、人にはいくつもの自分があって、それが相手によってコロコロと変わるのです。

個人というたった1人の自分だと、うまくそれが説明できません。
しかし「分人」という個人をさらに分けた単位では、コロコロ変化することが説明できます。

たとえば僕の場合、娘に接するときのデレデレな態度と、会社で上司と接するときの態度は全く違います。

対人関係ごとに見せる、別々の顔がありますが、どちらが本当の自分ということはありません。どちらも本当の自分です。

それが娘との「分人」と上司との「分人」が僕の中に存在しているのです。

分人とペルソナの違い

次に分人とペルソナの違いを見ていきましょう。

僕はユングが提唱した「ペルソナ(お面)」と分人は違うものだと考えます。

ペルソナという考え方を山口周さんはこのように説明しています。

ペルソナとは、元来は古典劇において役者が用いた「お面」のことです。

(中略)

つまり、実際の自分のあり様を保護するために外向きに形成された「お面」ということですが、実際の妥協の範囲はそれほど明確に意識されているわけではなく、常に、「どこまでが面でどこまでが顔なのか」という問いがついてまわることになります。

(山口周『武器になる哲学』KADOKAWA 81頁)

このペルソナという考え方は、「本当の自分(個人)というものがまずあって、仮面をかぶっている」という発想です。

分人とは、本当の自分など存在しないという考え方なので、ここは似ているようで違います。

分人とは八方美人ではない

分人は、八方美人とも違います。

八方美人とは、だれからも悪く思われないように、要領よく人とつきあってゆく人。

これは著者の平野啓一郎さんが明確に否定されています。

よく、分人という考え方は、結局「八方美人のススメ」なのか、と言われることがある。しかし、むしろ真逆である。

(中略)

八方美人とは、分人化の巧みな人ではない。
むしろ、誰に対しても、同じ調子のイイ態度で通じると高を括って、相手ごとに分人かしようとしない人である。

(平野啓一郎『私とはなにか』講談社現代新書 81頁)

八方美人は分人とは真逆の考え方

この間テレビを見ていたら、とあるアイドルの方が、

「高校の時、誰にでも敬語で話すマンガのキャラクターにあこがれていた。真似をして誰にでも敬語で話すようにしていたら、友達がいなくなった」と言っていました。

これも誰にでも同じ調子で通じると思って、失敗したパターンかと思います。

信仰者が人によって態度を変えるのは、自然なこと

ここからは、分人の考え方がが信仰者にも同じように用いることができるのではないか、ということを僕の視点から話していきます。

良い対人関係を築く人は、柔軟に分人化する

ここまで見てきて、分人という考え方が少し分かってもえらえたかと思います。

まきのり
詳しくは本書『私とは何か』を読んでみて下さい。
本当にオススメです!

僕は、この分人という考え方を知って、「あ、相手によって態度が変わるのは自然なことなんだ」と思うことができました。

さらに著者は、よい対人関係を築く人は、むしろ柔軟に分人化する人だといっています。

『3年B組金八先生』のような学園もののドラマでは、主役となる「いい先生」は、生徒一人一人に対して柔軟に分人化する。

グレた生徒とは、その生徒と最もうまくコミュニケーションが取れる分人になる。優等生とは、また違った分人で接する。そのことに生徒が信頼を寄せる。

(平野啓一郎『私とはなにか』講談社現代新書 81頁)

たしかに自分自身がであったいい先生も、相手によって態度を変えていたなと思い出しました。

これは先生だけではなく、私たち信仰者にも当てはまると思います。

住職だって、神父だって柔軟に分人化したほうがいい

『金八先生』のようないい先生は、柔軟に分人化すると前の項で書きました。

ということは、住職や神父も柔軟に分人化できるひとの方が、うまくコミュニケーションを取れるのではないか。

これが僕の結論です。

相手によって接し方を変えることのできる信仰者のほうが、信頼されるのではないでしょうか。

初めに僕は、自分自身を例にだして、披露宴で「えっ宗教家の方って、そんなに明るくふざけてもいいんですか?」と言われたと書きました。

その時は、「やっぱり良くなかったのかな、信仰者はあるていど厳格な態度をとるものなのかな」と思ったりもしました。しかし、『私とは何か』を読んで気持ちが楽になったのです。

披露宴という陽気な席で、相手に合わせて明るく振舞う。
そんな分人が僕の中にはいます。

これはむしろ良いことだと今では思うことができるようになりました。

また、勉強会でふだん明るいザキヤマ先輩が、信者さんの前でマジメに振舞っている。

その相手に合わせて柔軟に変化しているザキヤマ先輩はやはり分人化が上手いのだと思います。

この本のお陰で大切なことに気がつくことができました。

まとめ

今回は平野啓一郎さんの『私とは何か』を参考に話を進めてきました。

まとめ

【2つのエピソード】

  • 【僕のケース】弟の披露宴で賑やかに振舞っていたら、「えっ宗教家の方って、そんなに明るくふざけてもいいんですか?」と言われて、違和感を覚えた。
  • 【先輩のケース】普段明るい先輩が、信者さんの前になるととてもマジメに話をしていることを知り、違和感を覚えた。

【分人についてざっくりと】

  • 分人とは、分人とは、対人関係ごとの様々な自分のこと。
  • 分人とは「ペルソナ」とは違う。
  • 分人とは八方美人ではない。

【信仰者が人によって態度を変えるのは、自然なこと】

  • 良い対人関係を築く人は、柔軟に分人化する
  • 住職だって、神父だって柔軟に分人化したほうがいい

今回参考にした本です。
よければ手に取ってみてください。

以上、「【人によって態度を変えてしまうと悩む信仰者にオススメ】分人という考え方を紹介」という話でした。

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