【エッセイ】信仰を育むのは、山に木を植えることに似ている

ぼくは林業を営んでいる宗教家です。
普段は山に入って木を切っています。

そして山から下りているときは、信仰者として祈ったり、ボランティアのようなことをしたりしています。

そんなぼくが最近思うこと。
それは信仰を育むことは、山に木を植えることと似ているということです。

この二つには共通点があります。

それは、どちらも「育てるのにやたら時間がかかる」ということです。

まず信仰の場合ですが、信仰って基本的にインスタントにはできないものだと僕は思っています。

少なくとも僕が信仰を養っていく場合はそうでした。

宗教の教会に生まれた僕は、なんだかよく意味の分からない神様の言葉を、子どもながらに聞いて育ってきたのですが、その時は「マジでだるい」その一心でした。

こんな意味の分からないことを聞かされて一体何になるんだ。

このお祈りの時間をたのむから「クレヨンしんちゃん」を見る時間にあてさせてくれ。

そんなことを考えながら子供時代を過ごしていました。

しかし、20歳を過ぎたあたりから、少しずつ変化が起きます。

ふとした瞬間に、「あれっ、あの神様の言葉ってこういう意味だったのか」と思うことが出てきたのです。

それまで訳が分からず暗唱していた言葉が急に分かる瞬間がくるようになりました。

それは本当に突然訪れることがあります。

例えば大学生のとき、バイトに行っている途中でふと「あ、この世界って本当に神様が貸し与えてくれてる世界かも」と思うこともありました。

(僕が信仰している宗教には、「この世界は神様が貸してくれてるもんなんだよ」っていう教えがあるのです)

当時、人間関係で悩んでいたこともあり、全てのものは神様からの贈り物だと気がついた時に、視界が晴れていくのを感じたのです。

「苦手なあの人も、神様からの贈り物なのかもしれない」

だとすると、どんな意味があるんだろう」と考えることができるようになりました。
(もちろんマジでヤバい人からは全力で逃げる必要もあると感じていますが)

「いつかは分からないけれど、準備をして待っていれば、いつかそれは訪れる」

信仰ってそういうものかもしれません。

そしてこれは林業で木を植えることにも当てはまります。

皆さんもなんとなくご存じかと思いますが、木って野菜みたいにいかないんです。

すぐに収穫できない。
何十年、何百年という年月がかかってようやく出荷できます。

実際今僕が伐っている木は、僕の祖父が植えてくれたものです。
中には曽祖父が植えた木もあります。

自分で植えても、それが自分のもとに返ってくるのはずっと先なのです。

そして場合によっては、自分では収穫できないこともある。

それでも木を植える。

こういう仕事って、今すごく敬遠されているように思います。

ちまたには『二週間で3万円稼げる副業』とか『すぐ彼女ができるためにやるべき10のこと』とかいうような文句が多くみられます。

僕自身もそういう文句が好きで、思わず手を伸ばしてしましまいます。

でも本当に大切なものって、そんなインスタントには手に入れられないんじゃないのかなと思うようになってきました。

もっと長い時間の流れのなかで、木を植えるような気持で信仰するのがいいんじゃないかと。

木を植える作業は正直、しんどいし、その時は何の収穫もありません。

でも植えないことには、何十年後かに木が収穫できないんです。

信仰も、はじめは全く意味が分からないことを繰り返しするのが苦痛なことが多いと思おもいます。

お祈りして、神さまの言葉を聞いても、すぐに何かが分かるとか、いきなり気がつくことがあるというのは稀です。

木と同じように、信仰もすぐには収穫できません。

でも10年、20年とたったとき、いつの間にか自分の拠り所となるものが出来ている。

それはときに日照りから木陰を作ってくれる1本の木になるかもしれません。

また自分が休むためのベンチになることもあるかもしれません。

そんな信仰の木が、必要なタイミングで生えて僕を助けてくれる。

まだ30年そこそこしか生きていませんが、それが分かるようになりました。

すぐに役に立つことがもてはやされる昨今の中で、すぐには役に立たないものを大事にしていける。

そんな信仰者でありたいなと思います。

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