2年ほど前のことです。
とある日のお昼間、僕は教会の神殿から少し離れた部屋で、神様にお供えした食べ物を片付けていました。
しばらくすると、誰かが神殿に入って来られてお祈りしている声が聞こえてきたので、近くまで行き耳を澄まして誰が来られたのか聞いてみることに。
声の感じからおそらくいつも明るく元気な60代の女性、Hさんだとわかりました。
「あとで挨拶させてもらおう」と心の中で思い、そのままお祈りの邪魔にならないように静かにお供え物の片づけを進めます。
* * * * * *
そろそろお祈りが終わったかなと思い、神殿のほうに近づいていったのですが、僕は途中で足を止めました。
Hさんのお祈りの声が、すすり泣きが混じったものに変わっていたからです。
いつも明るく、周囲にの人には普段、嫌な顔ひとつ見せることのないHさんが、泣いている。
僕にとってはそれがとても驚きでした。
そしてHさんがいつも明るくしているのは、「そういう性格だから」というだけのものではないとうことに気がついたのです。
フランスの哲学者アランは著書『幸福論』の中にこんな一節があります。
悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。されるままになる人間は悲しい。
(中略)
根本的には、上機嫌などというものは存在しない。正しく言えば、気分というものは、いつでも悪いものだ。そして、あらゆる幸福は、意志と自制とでできている。
(アラン『幸福論』角川ソフィア文庫 263頁)
つまり、ものごとを否定的(マイナス)にとらえる人は、ただその時の「気分」に流されて、マイナスにとらえている。
しかし、ものごとを肯定的(プラス)にとらえる人は、明るく通るという強い「意志」をもって生活している。ということだと思います。
困ったこと、悲しいことがないという人は、おそらくほとんどいません。
いつも人前で笑顔を絶やさない人の根底には、「どうせ生きるなら、明るくいきたい」「周りの人に元気を与えたい」といった強い意志が必要になるのではないでしょうか。
僕はそれまでHさんについて勘違いをしていたように思います。
明るいHさんには、「つらいことがあまり起こらない」と、どこかで思っていたところがあります。
しかし、そうではなく他の人と同じようにつらいこと、悲しいことはHさんにも起きている。
けれども普段はそれを周囲に見せないようにして、信仰を通して育んだ意志の力で生活していらっしゃるのだとそのとき気がつきました。
同じ信仰者として、まだまだな自分。
Hさんのように意志の力を大事にしていていきたいと思った出来事でした。
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