創造神話が何のためにあるのかを問い直す

教会のひと
創造神話ってあるけどさ、あれって何のためにあるの?
まきのり
個人的には、めっちゃ大事だと思っています。

宗教にはそれぞれに「神が世界を作ったときの話」という物語があることが多い。

それを「創造神話」といったりする。

今の世の中、そんなもんは嘘だと言われかねないが、僕はこれすっごい大事なものだと思っている。

今回は、そんな創造神話というのもが持つ恐るべき力について、力説していきたい。

まきのり
ではいきまっしょい。
目次

1枚の絵を見て感じること

まず皆さんには1枚の絵を見てもらいたい。

引用させてもらったが、これは東山魁夷の「道」という絵だ。

皆さん、これを見てどんな感想をお持ちになっただろうか。

僕は1番初めにこの絵を見た時、「あぁ……道だな」という、何のひねりもない感想しか出てこなかった。
恐るべき情緒のなさを露呈させてしまった。

しかし、僕はある本に出会い、この絵の見方がガラッと変わった。その本を読み終えたあと、再びこの絵を見た時には鳥肌が立ったのだ。

ここからは、そんな絵の見方を変えた本を紹介する。この絵を描いた東山魁夷の著書『風景との対話』だ。

東山魁夷の『風景との対話』を読む

そのまえにまず『道』の作者、東山魁夷の若い頃について少し触れておく。

著者生い立ち

東山魁夷(ひがしやま かいい)

明治41年、横浜生まれ。

父の仕事の関係で小さい頃に神戸へ移住し、そこから高校までを港町で過ごす。絵を書くことが得意だった魁夷は東京美術学校(現東京藝術大学)へ入学する。

若い頃はなかなか芽が出ず、他の学友たちが売れていくのを横目に、悶々とした日を過ごす。

家庭の経済状況が悪化したため、魁夷は自分で学費を稼ぎ、ベルリンへ自費で渡航する。

その後、さらに追い打ちをかけるような時代が魁夷の身に降り注ぐ。
太平洋戦争が起こり、魁夷も終戦の年に召集がかかったのであった。

この後、魁夷は日本を代表する画家として数々の名作を生むのであるが、そのキッカケとなったのがこの太平洋戦争での召集で、熊本へ送り込まれたことだった。

魁夷は熊本でとても兵隊というには、あまりにも惨めな恰好の服を着て、毎日爆弾を持って敵に向かって飛び込む練習に明け暮れるという壮絶な日々を過ごす。

 

そんなある日、訓練のため熊本城跡へ行くのだが、そこで魁夷の目に止まった風景があった。それは熊本城から見える阿蘇の風景だった。

※現在の熊本城からの風景

熊本での魁夷の体験が、先ほど紹介した『風景との対話』のまえがきとして載っている。

この本のまえがきを読んで僕は泣いた。

魁夷が熊本城からの風景を見た時の感動が分かる1文があるので、以下引用する。

私は酔ったような気持で走っていた。魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を——。

特に珍しいという風景でもない阿蘇からの眺めだったが、なぜ涙が落ちそうになるほど感動したのだろうと、魁夷は自らに問いかける。

そして、今までは平凡な風景として見逃していたのだと気がついた。「これをなぜ描かなかったのだろうか」と素晴らしい風景に出会えた喜びと、今まで気がつかなかった悔しさが同時に魁夷に訪れる。

そして魁夷は、こう思うのだった。

もし、万一、再び絵筆をとれる時が来たなら——恐らく、そんな時はもう来ないだろうが——私はこの感動を、今の気持で描こう。(東山魁夷『風景との対話』12.13頁)

 

と。幸いその後しばらくして終戦となったため、魁夷は再び絵筆をとることができたのだ。そして魁夷は、日本美術史に残る名作を次々と世に出していく。

そんな中、発表したのが今回紹介した「道」である。

皆さん、ぜひとももう1度東山魁夷の「道」を見ていただきたい。

先ほどと同じ絵なのに、違った印象をう受けたのではないだろうか。

私はこの『風景との対話』を読み、あまりに感動して、長野県にある東山魁夷館という美術館に一人で行ってしまった。
そこには「道」は無いのだが、それでも1枚1枚の絵に深い感動を覚えた。

見る絵は同じでも、作者の絵に込めた思いを知ることで、絵は変わって見えるのだ。

まきのりが考える「創造神話」の破壊力

それでは「神が世界を作ったときの話」の話に戻そう。

僕はこの「作者の思いを知ることで見方が変わる」ということは、創造神話にもまったく同じことがいえるのではないかと思うのだ。

神という作者が、どんな思いで世界や人間を想像したのかを知ると、この世界の見方が変わって見えるのではないか。

例えばうちの宗教の創造神話をめっちゃ簡単にいうと、この世がまだ何もない混沌とした状態のときに、ポツーンと神だけがいた。

その様子を神は「つまらん」と思った神は、人間を創って、幸せに暮らす姿を見たい思った。ほんで結構頑張ってこの世界と人間を創った。

というのが、超ざっくりした僕が信仰する宗教の「神が世界を創った時の話」だ。こんなざっくりした感じで紹介したら、マジで怒られそうだ。

この創造神話の場合、「何もなさ過ぎてつまらんから、人間が幸せに暮らす姿を見て一緒に楽しみたい」というのがポイントだ。
僕はここが超大事なポイントだと思っている。

この世界の作者(神)がどんな思いでこの世を作ったのかを考えると、人生でつらいことや悲しいことが起きた時も、その見え方が変わる。

「まぁでも神さまは最終的に幸せにしたいって気持ちで、今の辛いことも与えてるんだもんなぁ」ってなわけである。もちろん常にそんな風に思えるわけではない。断じてない。
ええ加減にせえよとなるときも、まぁまぁある。

ただこの世界の作者である、神の思いを知っているかどうかで、この世界の見方は少なからず変わると信じている。
というか結構な破壊力があるのではないか、とまで思っている。

よけれ信仰している皆さんも、もう一度ご自身の宗教の創造神話を見返してみてはいかかがだろうか。

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