【宗教家にオススメ】「信仰」とは何かを「遊び」という視点から考える

教会のひと
僕も信仰して長いけど、そもそもどんな境地を目指せばいいのかってイマイチ明確じゃないんだよね。

まきのり
わかります、僕もそうです。
でもある動画にであって、なんとなく自分の目指すべきところが見えた気がします。

今回はその動画に触れながら、「信仰」と「遊び」について少し掘り下げていきたいと思います。

このブログを見てくださっている方の多くは、信仰をされている方かと思います。

宗教は違えど「目指すべきところ」というのがあると思うのですが、いかがでしょうか。

僕が信仰する宗教にもめちゃくちゃ壮大な目指すべき世界があります。

ただ、壮大すぎてあまり我がごとにならないのもまた事実。

その壮大な目標のために、「個人」として、どんな姿になっていったらいいのかということを考えることができずにいました。

そんなときに出会ったのが、ある動画です。

今まで「個人」として目指す姿として言語化できなかったことを、とてもうまく言葉にしてくださっていました。

今回はその動画から学んだことを紹介したいと思います。

まきのり
ではいきまっしょい。

目次

信仰とは「子供が真剣に鬼ごっこする感じ」

先日、YouTubeを見ていると松山大耕というお坊さんが、めちゃくちゃ面白いことをいっていました。

その動画がこちらです。はじめのところが非常に面白い。

動画のはじめの部分を引用します。

悟りある仏教学者の方が「悟り」というのは体験だから言葉で表現できないが、あえて「悟り」を言葉にするならば「子供が真剣に鬼ごっこする感じ」と書いておられたんです。

引用動画:ビジョナリー対談「禅に学ぶ不安のマネジメント」クオレ・シー・キューブ x 妙心寺 退蔵院 副住職 松山大耕氏 (第2部)

悟りとは、「子どもが真剣に鬼ごっこする感じ」に似ている。

これは本当に的を射た言葉だなと思いました。

この章のタイトルはどの宗教でもイメージしやすいように「悟り」を「信仰」に変えさせてもらっています。

僕自身は仏教を信仰しているわけではありませんが、同じ信仰者として共感できる部分があります。

べつに僕が悟っているとか、信仰的にすごい境地に至っているというわけではありません。

ただ、個人的に「信仰者としてかっこいいな」と思ってる人を挙げていったときに、その人たちの共通点が「真剣に鬼ごっこをするように信仰している人」だったんです。

尊敬している先輩方は、めちゃくちゃガチで信仰してるんだけど、でも遊んでいるように楽しそう。

だから魅力があるのではないか。
そんな風に思いました。

今まで言語化できなかったことを松山さんから教えてもらって、すごくスッキリしました。(ちなみに「子供が真剣に鬼ごっこをする感じ」という表現は、元々は仏教学者が言っていたと語られています。誰のなんという書き物か知りたい……。)

実はうちの宗教でもこの「遊び」というのは非常に重要なことと捉えられています。

なぜなら宗教の目指すところが「陽気に遊山するように暮らす世界を実現する」ことだからです。

遊山とは、

1 野山に遊びに行くこと。「花を訪ねて―に出かける」

2 気晴らしに遊びに出かけること。「物見―」

引用元:goo辞書 

つまり僕たちは「遊ぶ」ことを目標に生まれてきた、ともいいかえられるかと。

まぁこんな言い回しで言うのはうちの宗教でもかなり少数派ですが。

なにはともあれ、「遊び」ということを掘り下げていくのはとても面白そう。

ここからはその「遊び」について、もう少し語っていこうかと思います。

参考にする本の紹介

今回は2冊の本をもとに話を進めたいと思います。

①松本 滋『人間の元なるもの 天理教の信仰と思想〔Ⅰ〕』道友社

②『居るのはつらいよ』

1冊は完全にうちの宗教の本なので、僕の信仰しているところがバレバレです。

でも別にひた隠しにしたいわけでもないので、いいということで。

「遊び」と「信仰(悟り)」について

まずは、遊ぶということの定義について確認したいと思います。

こちらは宗教学者である松本先生の本から抜粋します。

①自発性 親から遊びなさいと言われていやいや遊ぶのは、真に遊びとは言えない。

②無償性 損得抜き、利欲を忘れて。

③楽しさ 楽しくなければ、やっぱり遊びとは言えない。

④共同性 一人遊びもあるが、基本は何と言っても、みんなで共同して行う。

⑤ルール 遊びには一定のルールがある。

「よふきゆさん」の境地というのは、正にこの「遊び」を純粋な形で実現したものではなかろうか。

(参考文献:松本 滋『人間の元なるもの 天理教の信仰と思想〔Ⅰ〕』道友社 35.36頁)

※一部文章を省略しています。

上にあげられた5つが遊びには欠かせない要素だということです。

どれも確か遊びには必要不可欠という感じがします。

遊びって強制されるものじゃないですもんね。
だから楽しい。

いきいきと信仰しているかたは、この辺りのルールを無意識のうちに実践している気がします。

あと遊びに「なぜ?」という問いは通用しないっていうのも面白いと思います。

真剣に鬼ごっこをしているこどもに、「なんで鬼ごっこしてるの?」

と聞いたところで「え……、だって楽しいから……」

くらいの言葉しか返ってこないのではないでしょうか。

そもそも、ものすごく野暮な質問のようにも思えます。

そう思うと、遊んでいるという姿は究極の行いともいえるのではないでしょうか。

う~ん、遊ぶって深いな。

また心理学者の東畑開人さんは「遊びは中間で起こる」ものだと語られています。

遊びは現実と想像が重なるところで生じる。そのどちらかしかなければ、それは遊びではない。

「ただ砂をこねているだけですよ」となったら楽しくないし、

「ロボット帝国の要塞なんです。本当にヤバいんですよ、いまこれをやらないと世界が滅びるんです」と脂汗をかいていたら、それはそれでヤバい。

切実すぎて遊んでいるとは言えない。

遊びは中間で起こるのだ。主観と客観のあわい。創造と現実のあわい。子どもと母親のあわい。遊びは自己と他者が重なるところで行われる。

それはすなわち人は誰かに依存して、身を預けることができたときに、遊ぶことができるということを意味している。

東畑開人『居るのはつらいよ』 154頁

これも面白いです。

この「中間」というのがポイントなんですね。

このあたりは僕の視点も交えて、次章で取り上げます。

まきのりの視点 悟り(遊び)は神と人間の中間で起こる

まず遊びのエキスパートである、うちの娘(三歳)の話をします。

先ほど「遊びは中間でおこる」と書きましたが、娘の遊びも例外なく母との間で起きています。

お母さんとおままごとを一緒にすることはもちろん、公園などで1人遊びをしているときでも、ふと顔を挙げてお母さんがいるかどうかを確認するのです。

お母さんの存在を確認すると、安心した様子でまた遊びに没頭します。

これって信仰している人と神様の関係にすごく似ていると僕は思います。

神に見守られながら、生きる。

そうすることで、安心して生きる(遊ぶ)ことができるのではないかと、そんなことを考えました。

現実と神の世界という狭間でこそ、遊びが生まれる。

それが悟りってことなんじゃないかと思います。

人生を豊かに生きるとき、遊びの時間は欠かせません。

自主的に、損得を忘れて、みんなで楽しくルールを守りながら神様に見守られながら生きる。

そんな「真剣な鬼ごっこ」ができる信仰者を目指していきたいと感じた今日この頃です。

まとめ

今回は「信仰」と「遊び」について話してきました。

まとめ

〇信仰とは悟りとは「真剣に鬼ごっこする感じ」に似ている

〇遊びが成立する5つの条件

  1. 自発性 
  2. 無償性 
  3. 楽しさ 
  4. 共同性 
  5. ルール 

遊びは中間で起こる

  • 主観と客観のあわい
  • 創造と現実のあわい
  • 子どもと母親のあわい
  • 遊びは自己と他者が重なるところで行われる。

今回紹介した本です。

良かったら手に取ってみてください。

以上、 「「信仰」とは何かを「遊び」から考える」という話でした。

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