こんにちは。まきのりです。
今回は「宗教はAIに代替えされるのか」というテーマを[前編][後編]に分けて書いていこうと思います。
ポイントは2つです
- そもそも宗教は必要なのか
- 必要なのだとしたら、AIに代替えされないために大切なことってなんだろう
今回は、1つ目の「そもそも宗教が必要なのか」ということを語っていきます。
ほぼ僕の私見ですので、正解ではありません。そのあたりご注意ください。
そもそも宗教は必要なのか
腹痛を通して感じたこと
先日、いきなりお腹が痛くなりました。
慌ててトイレに駆け込み、用を足している時に「そういえば最近よくお腹を下すよな」と心の中で思ったのです。
スマホを取り出して「腹痛 原因」とか「突発 腹痛 原因」とかでいろいろと調べてみました。
そこでふと、「あ、信仰的に考えることをすっとばしてんな」と後で気がついたのです。
うちの宗教では体に起こって来たことを通して、今の現状を振り返ることがあります。
例えば「口まわりに腫れができた」とかだったら、「最近、周囲の人に対してひどい言葉をかけていなかったかな」というような「口」に関係することを振り返るといったような試みです。
すべての信仰者がやっているわけではありませんが、うちの宗教ではこのように病気に対して信仰的なアプローチをすることがあります。
病気に対してそんな信仰的に考えるということを全く考えずにグーグルさんにお世話になった僕。この時に、こりゃ信仰する人が減るのもなんとなく分かるなと思ったのです。
これはあくまで僕の私見で、なんのデータも無い話ですが、もし何か身の周りに困ったことが起こった時に「そうだ、近くのお寺に行ってみよう」とか「教会で話を聞こう」と思う人はかなり少数派なのではないでしょうか。
だいたいそういう時、
- 病気で困っている→グーグルで調べる→病院に行く
- 人間関係に困っている→グーグルで調べる→心理カウンセラーに相談に行く
- お金に困っている→グーグルで調べる→役場に相談に行く
という流れが加速しているように思います。
昭和くらいまでは日本でも「病気」や「人間関係」などの悩みを、教会やお寺にに相談しているという人もいたのではないでしょうか。
うちの宗教に限って言うと、30年ほど前までは病気や人間関係のことで教会に相談に来られていたというケースは多々ありました。
しかし、現代では多くの人が困ったことをスマホで検索して、専門機関に相談するというケースが増えています。
こうなってくると、「宗教の意味」というものがもはや無いのではないかと僕自身不安にな気持ちが湧いてくるのです。そんな時に思い出す、大学時代の教授とのやり取りがあるので紹介します。
ある宗教学者とのやりとり
僕が宗教系の大学に通っていた頃、教授にこんな質問をしたことがあります。
すると、その教授はこう答えてくれました。
でもそれが案外正常な範囲なのかもしれないよ。
もう少し詳しく説明すると
宗教はこれから専門とする範囲が「生と死」といったことに狭まっていくのではないかということです。
今までは、政治や経済、医療ということにまで宗教の力が及ぶことがありましたが、それは本来宗教の領域ではなかったものだと。
それが時代とともに分化して独立してきただけのこと。
かえって今日のような現代のほうが、宗教の純粋な存在意義がハッキリするとも言えるのです。
現代の姿が、宗教の本来あった守備範囲で、今までかなり大きな範囲を守っていたのではないかということを教授から教えてもらいました。
これは僕の胸にストンと落ちました。
宗教の守備範囲についてもう少し詳しく
哲学を分かりやすく解説する飲茶さんの著書の中で、神学者トマス・アクィナスのことを説明しています。
ここが宗教の守備範囲を考える上で、重要だと思ったので引用します。
トマス・アクィナスは、(中略)理性では「絶対に到達できない領域」があることをはっきりさせた。すなわち、「理性が知ることができる真理」には一定の限界があるのである。
そのうえで、彼はこうも述べている。
「理性の範囲外にある真理については、神学でしか回答を出すことができない。それは神の啓示からでしか知ることができないのだ」(飲茶『史上最強の哲学入門』河出文庫 256頁)
この引用からも分かるように、宗教の守備範囲は「科学では解明されないもの」だといえます。
この『史上最強の哲学入門』の中では、「科学では解明できない? いや、そんなことないだろう」と、宗教(神学)に対してさらに追い打ちをかけてくる新たな哲学が出てきます。
ややこしくなるのでここでは触れないことにします。詳しくは本をご覧ください。
これから信仰者が担っていくこと
今までの話をまとめると、今後お寺や教会が担っていくのは「いかに生きるか」や「死とは何か」という理性の範囲外のことに絞られていくということです。
ではこの「生き方」や「死とはなにか」ということは、具体的に何なのでしょうか。
ここで大切になってくるのは、「宗教のもつ物語」だと個人的に思っています。
多くの宗教が「創造神話」という物語をもっており、それこそが今後大切になってくると思うのです。
なぜなら、創造神話(物語)は「理性の範囲外」にあるものだから。
ここは、究極の問いに答えるという宗教にしかできない範囲です。
河合隼雄さんと小川洋子さんの対談をまとめた『生きるとは自分の物語をつくること』という本があります。
その中に、「親しい人との死」を考えるこんな1節があるので引用します。
「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在に折り合いをつけられる。
(中略)
生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げていくことに他ならない。
(河合隼雄/小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫 126頁)
ここでは、自分だけの物語を見つけるというような言い回しで話が進んでいますが、中には自分で物語を見つけることができない人もいるかと思います。
そんな人たちに、僕たち信仰者は「こんな物語ありますけど、ためしに聞いてみませんか」ということができます。
それが、その人の背負っている荷物を降ろして、むしろその荷物を踏み台にできる。
そんな一助となるのではないでしょうか。
[後半]のテーマに少しだけ触れる
さて、ここで[後編]に続くもう1つのテーマについて軽く触れておきましょう。
これまでの話で、宗教が何となく必要だということを説明してきました。
そこで後半ではようやく、AIに代替えされないために大切なことってなんだろうということを考えていきたいと思います。
今皆さんの頭のなかにあるのは、
まきのり、おまえは今宗教が必要だといったばかりなのに、なぜその宗教がさらにAIにとって代わられると、2段階で脅してくるのだ。ということではないでしょうか。
あんまり脅すような気持でかいていませんので、先に結論から言います。
宗教は必要だとおもうが、気を付けないとそれすらAIにとって代わられる。
これが次回の結論です。
詳しくは、次回話していきたいと思います。
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