1冊の本から茶道が好きになった僕
茶道が好きだ。
僕はある本に出会い、茶道が好きになってしまった。
それが森下典子さんが書かれた『日日是好日』だ。茶道をテーマにしたエッセイのような形で書かれている。
この本は幾度となく読み返し、欲しいという人にはプレゼントしている。それくらい大好きな本だ。
僕が人生で影響を受けた本ベスト3に入る本なのは間違いない。
そんなこともあり、僕の信仰にも多大なる影響を与えられている。それが良いとか悪いとかそういうんじゃなくて、もうそうなっちゃったのだからしょうがない。
しかし茶道って元々「禅」の流れを汲んでいるから、宗教というものからもそんなに遠くないだろうし、むしろ親戚みたいなもんではないのだろうか。
とにかく、影響を受けているのは確かだ。
特に信仰を養う最中の後輩と関わるときはこの本で教わったことを実践している。
僕も30代前半と、まぁまぁ若いので、後輩と関わる時どうしたら信仰を養ってもらえるのかを考えた時期があった。
そこで師匠としたのが、『日日是好日』の中に登場する、著者のお師匠さん、武田先生だ。もちろん面識はない。
しかし本の中で出てくる武田先生のことばが、もう僕の中に沁みて沁みて、もはや武田イズムの申し子と化しているのだ。
今回はまず、僕が考える信仰心を養う上で一番大切にしていることを話す。その後、僕が武田先生を通して茶道から学んだ、信仰を養う3つのポイントを紹介する。という構成でお届けしたい。
ではいきます。
僕が考える信仰心を養ううえでの大きな目標
まず、自分自身が意識している信仰する上での大きな目標がある。それは「信仰を通じて幸せになる」ということだ。これがなかったら何のために信仰しているのか分からない。というか、不幸になりたくて信仰している人など、おそらくいない。
では、そのためにどんな信仰者を目指したらいいのか。
僕がうんうん唸りながら出した、今のアンサーは、「自分で考えて行動できる信仰者になる」ということだ。これはどんな宗教を信仰していてもいえることかもしれない。
神様や導く人の言葉を素直に聞いて従うというのも大事なのは分かっているが、それだけだと、いつまでたっても自分の足で動ける信仰者にはならない。信仰的に子どもの状態ってわけだ。というかその状態って神様的にもハラハラしながら見ていると思う。「早く独り立ちして~!」と。
ベストセラーになった『思考の整理学』の中で、著者の外山滋比古さんはこんなことを言っている。
学校の生徒は先生と教科書にひっぱられて勉強する。独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力で飛び上がることはできない。(中略)
人間にはグライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。(『思考の整理学』外山滋比古 12~13頁)
これは学生のことを2つに分類した例だが、信仰者にも同じことが言えるのではないだろうか。
ただ従うというだけではグライダー信仰者(僕が今勝手に命名した)になってしまうと思うのだ。
はじめはそれでいいのかもしれないが、どこかのタイミングで自分で考えて行動できる、エンジンを積んだ飛行機信仰者(これも今僕が勝手に命名した)になる必要があるのではないか。
信仰を通じて幸せになってほしい。
そう思うと、僕はこの「飛行機信仰者」になることが大切だと思うのだ。
茶道から学ぶ、信仰を伝える3つのポイント
ここでこんな声が聞こえてきそうだ。
しかもそんな信仰心を人にも伝えて、養ってもらうって激ムズやん!
この意見に対して僕は声を大にしてこう言いたい。
僕もこれはすんごい難しいことだと思っている。言うのは簡単だけど、行うのはマジで難しい。僕の中にも答えはなかった。そこで武田先生を勝手に師匠としたのだ。
この本を読んで、武田先生が言いたかったことを僕が自分流にまず一言でまとめる。それは「弟子となる人の“気づき”を大事にしてあげなさい」ということだ。これからそれを3つのポイントに分けて説明していく。
ポイント1 まず信仰の型を教える
ポイント1は「型を教える」だ。あれだけ素直に従っているだけではダメだ。と力説していた私が一番初めに伝えるのが、「素直に信仰の型を実践しよう」なのだ。
言うてること無茶苦茶なのだが、武田先生はこの型ということを本書の中で徹底的に教えている様子が描かれている。
その様子が分かる場面を引用する。若い頃の著者の森下さんが、武田先生に稽古をつけてもらっている場面だ。森下さんは何度も注意されイライラしてくるのだが、そこで武田先生はこういうのだ。
「お茶はね、まず『形』なのよ。先に『形』を作っておいて、その入れ物に、後から『心』が入るものなの」(『日日是好日』森下典子44頁)
その後も、森下さんは「心のないカラッポの形をつくるなんて、ただの形式主義だ」と心の中で反発をするのだが、とにかくまず初めはとことん「形」、つまりお稽古によって作法やお点前を教え続けたのだ。
信仰でいう「形」や「型」とはなんだろう。
僕は各宗教にあるお祈りの型・考え方の型がそれに該当するんじゃないかなと思う。
そんな型を、とりあえず身につけてみる。「お祈りって手を合わせながら、よく分からない念仏となえるのね」とか「イラっとすることがあったら、こう考えるのがこの信仰なのね」とか、まずそういった型を作る。それが大事ということを教わったのだ。
ポイント2 すべてを説明しない
ポイント2は「すべてを説明しない」だ。型を教えたあと、僕ならこう思うだろう。「ほんでそろそろこの型の意味を教えてもらえないでしょうか」と。
しかし、武田先生は、そこに込められた意味などを説明してくれなかったと本書では語られている。
まだ森下さんがお稽古を習い始めだったころに、「なぜですか?」と聞くと「理屈なんかどうでもいいの。それがお茶なの」と一蹴していたとのこと。すごい。学校教育では考えられない話だ。
しかし、10年15年経って森下さんは、分からなかったことが自然に一つ、また一つと自然に分かるようになってきたそうだ。答えは自然にやってきたのだと。
その部分を引用する。
お茶は、季節のサイクルに沿った日本人の暮らしの美学と哲学を、自分の体に経験させながら知ることだった。
本当に知るには、時間がかかる。けれど、「あっそうか!」と分かった瞬間、それは私の血や肉になった。
もし先生が初めから全部説明してくれたら、私は、長いプロセスの末に、ある日、自分の答えを手にすることはなかった。先生は「余白」を残してくれたのだ……。(中略)先生は手順だけを教えて、何も教えない。教えないことで教えようとしていたのだ。(『日日是好日』森下典子227頁)
これぞ究極の教え方ではないかと僕は思う。
粋だ。実に粋な教え方だ。
僕がこの本に出合わなかったら、確実に自分の心の気づきや喜びを、ゴリゴリに伝えていた。間違いなく伝えていた。しかし、この本を読んで、自分の気づきを伝えるという行為は、今から経験する人の気づきを奪ってしまうことになりかねないのだと知った。
それを知ってから、出来る限り自分の気がついたことをベラベラと喋るのを、僕はやめた。
ポイント3 気づきを散りばめる
武田先生は口には出さないが、生徒が茶道を通して気づきを得られるように、茶室のなかにいつも何かを用意していたそうだ。例えば「掛け軸」・「花」「和菓子」「茶道具」といったものがそれにあたる。
いつも旬のものを用紙して、生徒が自分で発見して、喜ぶことのできるよう努めていたのである。森下さんがある夏の暑い日に「掛け軸」をみて、気づきを得た場面などが、まさにそれにあたる。以下、引用する。
挨拶を終え、床の間に目をやった。人の背丈ほどある掛け軸が掛かっていた。その長い紙の頭のあたりに、たった一文字、「瀧」と、勢いよく、堂々と書いてあった(中略)一瞬、水しぶきを顔に感じた。滝壺から、冷気が吹き上がった。
(中略)その時、私の目から、分厚いウロコがポロリと落ちた。(あっ!掛け軸って、こういうものなのか!)難しくて分からないという思い込みが、いっぺんに吹き飛んだ。(『日日是好日』森下典子121頁)
これはほんの一例で、茶室には「いつも何かが待っていた」と著者はいう。
自分で気づきをつたえるよりも、生徒が気づきを得られるように、準備するようがよっぽど大変なことだと思う。
僕が信仰者として、後輩に気づきを準備しようと思ったら何ができるのだろうか。この文章を読んで、そんなことを考えた。なんたって信仰者には「茶室」や「茶道具」はない。そのかわり「教会」や「お寺」はあるのだが、それはまた別の機会に。
それよりも、自分自身が「まきのりさんのここが素敵だな」とか「まきのりさんいつも幸せそうだよねー」といってもらえるような自分でいることが大事なんじゃないだろうか。
いわゆる「背中で語る」という姿勢が大事になってくるんだと思う。
この本からは本当にいろんなことを教えてもらった。超オススメの本なので、良かったら読んでみてください!
まえがきだけでもいいんで!
僕はまえがきを読んで、泣きました。
以上、「茶道から学んだ、信仰を養う三つのポイント」という話でした!
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