松尾芭蕉から学ぶ、信仰への向きあい方

目次

そもそも松尾芭蕉って知ってます?

松尾芭蕉をご存じだろうか?
何となく社会の教科書で出てきたなと言う人も多いと思う。

どんな人物か、少し紹介する。

松尾芭蕉について

松尾芭蕉(まつお ばしょう)

寛永21年(1644年)生まれの歌人。

弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。(引用元:Wikipedia)

なんとなく思い出してもらえただろうか。

まだなんか分かんないって人のために、芭蕉が詠んだ有名な句を紹介する。

そう、芭蕉といえばこの俳句だ。(まきのり何となく調べ)

古池や 蛙飛びこむ 水の音

これで分からなかった場合は、そっとこのページを閉じることをおススメする。

今回はこの人の話しかしないからだ。

でもなんか気になるという場合は、そのままお読みいただけると、嬉しい。すごく。

芭蕉を知ることになった1冊

といっても実は今まで僕自身、芭蕉のことをほぼ知らなかった。

しかし、先輩から「この本いいよ」とオススメしてもらって読んだ芭蕉さんに関する本を読んだのがキッカケで知ることになった。

それがこの本だ。


『芭蕉百名言』山下一海 角川ソフィア文庫

この本は、芭蕉が自分で言ったことや、弟子に言い伝えていたことなどを集めてギュッとした1冊だ。

これを読んで僕は思う。

まきのり
芭蕉さん、天才ちゃうか?

もう本当に、書いてあることが本質を突いてるものばかりで、おそらく弟子とかにもズバズバ伝わったことだろう。

この本の中で、芭蕉は俳句(俳諧ともいう)を通して

  • 俳句の本質
  • 俳句への態度
  • 俳句の方法

といったことを語っている。

これが信仰とも共通することが多いと感じた。

今回は100個の名言のうちから、まきのりの最高にグッときた3つの名言を紹介する。

どれも「俳諧(俳句)の態度をめぐって」という章からの紹介だ。

「俳諧の態度」を「信仰の態度」と変換することで、「信仰の向きあい方」の1つの視点が得られるのではないかと思う。

ではいきまっしょい。

まきのり的グッときた名言3選

その① 古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ

題目の言葉だけでは分かりにくいので、著者の簡単な解釈も含めて引用する。

古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ。【芭蕉】

昔の立派な人の成したるものをそのまま真似しようとするのでなく、昔の人の目ざした高い目標を求めようとしなければならない。(『芭蕉百名言』山下一海 64頁)

 

これは信仰者にも言えることがあると僕は思う。

宗祖や教祖といった人たちがとった行動ばかりを真似しようとするあまり、肝心の宗祖が目指した目標を忘れてしまうということがある。言い換えれば、手段が目的になってしまっているということだ。

例えば宗祖が、「昔こんな方法で布教活動をしていた」という理由だけで、それをそのまま現代でもその方法を真似する。全く意味がないとは言わないが、「なぜ宗祖がそんなことをしたのか」という目的を忘れていると言える。

「求めたる所を求める」というのは、信仰者に向き合うときに、非常に重要な視点だと思う。

その② 格に入りて格を出ざる時は狭い

この名言には続きがある。例のごとく本書を引用する。

格に入りて格を出でざる時は狭く、また、格に入らざる時は邪路にはしる。格に入り、格を出てはじめて、自在を得べし。

俳諧が格に入って格を出ないときは狭いものになるが、格に入らないときは間違った道に走ってしまう。
いったんは格に入り、その後から格が出て、はじめて自在な俳諧が実現する。(『芭蕉百名言』山下一海 106頁)

「格」とは俳句の伝統的な骨組みのことだろう。

まきのり的に簡単に言うと

まず俳句の基礎を身につけてね。
でもいつまでも基礎ばっかりじゃ小さくまとまっちゃうよ。

あと、だからと言って、いきなり我流っつうのもヤバいよ。
めっちゃヘンな方向にいくよ。

基礎固めて、ほんでそっからその基礎を出たら、えげつない俳句できるよ。

ということだろう。

昔、中学の先生に「剣道や茶道の世界には『守破離』という3つの修行の過程がある」と教えてもらったことがある。

「守」は、先生の教えだとか、型などを忠実に守り、正確に身につける段階。修業や練習はここから始まる。

次は「破」。その学んだ型を破る時期。学んだことを否定し、良いものを取り入れ、自分に合った型をつくる。既存の型を「破る」段階。

最後は「離」。先生や型から離れ、独自の表現をする時期。新しいものを創造して形にしていく段階。

芭蕉はこの3つの過程を守ることで、はじめて自在な俳諧ができると言いたかったのではないか。

基本的な型ばかりでもダメ。

初めから自分のやり方でやるのもまたダメ。

型から入って、その型をでるのが大事だと。

信仰に向き合う時にもまったく一緒のことがいえるのではないだろうか。

その③ 俳諧は、教えてならざる処あり

続きがあるので引用する。

俳諧は、教えてならざる処あり。よく通ずるにあり。ある人の俳諧はかつて通ぜず。ただ物を数えて覚ゆるようにして、通ずるものなし。【芭蕉】

俳諧は教えてもうまくいかないところがある。
だから、学ぶもの自身が、おのずから悟らなければならない。ある人の俳諧は、いっこうに身につかない。
それは物を数えるように、理屈で覚えるからである。それでは、うまくいくはずがない。(『芭蕉百名言』山下一海 115頁)

まきのり的に言うと、感覚的なところはどうしても、自分で味わってみないと分からない。ということではないかと思う。

芭蕉
あ~もうなんで分かんないかな~、もうこれ感覚だから伝えられないんだよね。

という芭蕉の声が聞こえてきそうだ。

信仰も、理屈で教えを理解することは可能だ。

しかし自分の生活の中で実践して、体感することでしか掴むことができない部分もあると思う。

そういう意味で、信仰の良さと言うのは本来伝えることができないと言っても過言ではない。自分の体験を伝えることはできるが、あとは本人が歩まないと分からないからだ。

ほんと、信仰に向き合うって難しい。

以上、まきのりのグッときた名言3選をお伝えした。

他にもまだまだ素晴らしい名言がたくさん載っているので、ぜひ本書を本でいただきたい。

今回は「松尾芭蕉から学ぶ、信仰への向きあい方」という記事でした。

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