【エッセイ】神様からのプレゼントを自分宛として受け取る

先日、僕が信仰する宗教の本山に1人で行ってきました。

コロナ禍ということもあり、最近めっきり行く回数が減っていましたが、久しぶりの参拝。

暑い日でしたのが本山の畳に座りお祈りをしていると、背中を涼しい風が吹きました。

思わず「久しぶりの参拝に神様がご褒美をくださったのかもしれない」と嬉しくなりました。

ただよく考えてみると、おそらくその風はそこにいる全員に吹いているわけで、別に僕1人に対して吹いたわけではありません。

それを勝手に僕が勝手に「神様が僕に向けての贈り物をくださった」と思ったわけです。

これってよく考えると面白いですよね。

ただ個人的にはこうやって、自分宛のメッセージだと思っていろんなことを受け取る人に幸せがやってくるように思います。

歌人の正岡子規はこんな短歌を詠んでいます。

真砂なす 数なき星の其の中に

吾に向かひて 光る星あり

正岡子規『竹乃里歌』「星」

【現代語訳】
細かい砂のような無数に散りばめられた星の中に、私に向かって光る星がある

正岡子規は自分に向けて、光る星があると受け取ったわけです。

彼に信仰があるかないかは知りませんが、自分に向かって光る星があると考える方が、なんというか幸せだと思います。

そしてそれに気がついた正岡子規は、「これを他の人にも伝えたい」と思い、歌にしたというわけです。

さらに読んだ人が、「この歌、いいね」と言って今まで読まれ続けています。

僕がこの歌をしたのもNHKの「おはなしのくにクラシック」からです。

以前にも話したことがありますが、松任谷由実さんも「優しさに包まれたなら」で同じような心境を歌詞にしています。

カーテンを開いて 静かな木漏れ日の 優しさに包まれたなら きっと

目に映る全てのことはメッセージ

松任谷由実『やさしさに包まれたなら』

ユーミンも同じように、自然から自分宛のメッセージを見出しているのです。

そしてそれを歌にした。

歌は僕たちの心を打ち、みんなを温かい気持ちにしたわけです。

日本の国民でこの歌を知らない人は少数ではないか思うほど、知れ渡った曲です。

曲が広く知れ渡った結果、ユーミンもおそらくhappyになったんじゃないかと。

内田樹はこのようなことを「贈与」という言葉で表現しています。

といっても「贈与」という言葉自体は人類学ではよく使われる言葉だそうですが。

以下、引用です。

人間的な営為のすべては「贈与を受けた立場」からしか始まらない。

そして市民的成熟とは「自分が贈与されたもの」についてどこまで長いリストを作ることができるか、それによって考量されるものなのです。

そのリストが長ければ長いほど「大人」だということになる。

内田樹『困難な成熟』夜間飛行213頁

これは自分宛のメッセージかというリストがたくさんある人の方が大人である。ということです。

そしてこれは僕の持論ですが、そういう大人の方が長い目で見たとき幸せになりやすい。

そう思います。

なぜなら、自分宛のメッセージを受け取った人は「もらいっぱなしじゃ悪いな」と思い、次の人にパスを送るからです。

するともらった人は喜ぶ。そしてまた送ってくれた人にお返しをしたり、別の人にパスをしたりする。

ユーミンもそうです。

曲を作ったらみんなが「この曲、すごくいいね」と思ってCDを買ってくれたわけです。そういう人の方が幸せになりやすいのではないでしょうか。

内田樹さんは、今あるものを当然と思わないことから贈与が立ち上がると述べられています。

太陽の光があるのは当然だ、と思う人は太陽の恵みに「感謝する」という行動を思いつきません。

「ありがとう」というのは文字通り「有り難い=存在価値が少ない」ということです。

その「有り難い」幸運に今巡り合った。たまたまこんないい思いをさせていただいた。だから感謝する。

「贈り物を受け取った」ということに気づいて「感謝」の義務を感じたものが登場する。

それが贈与ということの本質です。

(内田樹『困難な成熟』夜間飛行221頁)

正岡子規もユーミンも、贈り物を享受する能力が高い。

もっといえば、「受け取っただけではなんだか悪いな」と、次にパスをしようとしている。

そんな人が幸せを享受しやすい人だと言えそうです。

そのためには「信仰」ってすごくいいなと改めて思います。

自分宛のメッセージに気がつくためのサポートをしてくれる。

それが信仰の一つの役割だと思うこの頃です。

たとえばうちの宗教だと、神さまのはたらきがどんなものか、を10の項目に分けて教えられています。

水は神様のはらたきだよ~、とか。呼吸ができるのも神様のはたらきやで~、とか。

「なんじゃそら、そんなの当たり前にあるものばっかりやんけ」と言われそうです。

しかしそんな当たり前を再確認する中に、幸せが見つかりやすいんじゃないかと。

正岡子規もユーミンも、「一面の星空」や「静かな木漏れ日」いった当たり前にある日常から贈与を受け取ったわけですから。

そう思うと、信仰って、そんな当たり前に気がつくサポートをしてくれるものじゃないかと思うのです。

いや~すごいことに気がついちゃた。

んじゃ今回はこの辺で。

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