教会・お寺などの代表をしていて漠然と不安を感じることはありませんか?
僕はめちゃくちゃあります。
信仰的な話ではなく、あくまで運営に関することです。
このままでいいのかということを常に考えながら、少しでもいい教会にしたいと日々奮闘しております。
そんな時に出会ったのが、今回紹介する本『お寺の教科書』です。
これは買ってすぐに一気読みしました。
お寺に向けた内容となっていますが、他宗教の僕が読んでも勉強になることがたくさんありました。
また何となく思っていたけど、言語化できていなかったことを上手く文字にしておられ、「そうそう、ホントおっしゃる通り!」と心の中で何度も言いました。
そんな本書を2回にわけて紹介していきたいと思います。
今回は書評を書き、次回は「寺報(お寺の会報)」についてスポットをあてて語っていきたいと思います。
本の紹介
今回読んだ本は、松本紹圭さんと井出悦郎さんの共著『お寺の教会書』です。
〇松本紹圭(まつもと しょうけい)
一般社団法人お寺の未来代表理事。
浄土真宗本願寺派光明寺僧侶。
東京大学文学部卒業。
〇井出悦郎(いで えつろう)
一般社団法人お寺の未来副代表理事。
東京大学文学部卒業。
【本書の内容】
「これからのお寺をどうしたらいいのか」に悩むお寺の関係者に向けて、新しいお寺のあり方を提案するⅠ冊。
まきのりがグッときたところ3選
ここからは僕が本書を読んで、特にグッときたポイントを3つ紹介していきます。
危機感からすべてが始まる
まず僕が本書を読んで、一番刺さった箇所を紹介します。
これからのお寺づくりを考える際に何が重要でしょうか? それは危機感です。
これからのお寺の柱である使命の打ち立て方についてお話ししていきますが、すべては危機感から始まります。
それも、「本物の危機感」からすべてが始まります。
(松本紹圭 井出悦郎『お寺の教科書』徳間書店 167頁)
すべては本物の危機感から始まる。
これは僕自身も実感があるので、お寺の世界でも同じなのかと知ることができて、「やっぱりそうだよな」という確信を持つことができました。
僕は20代前半のとき、お寺でいう本山などで6年近く修行をしていました。
しかしそのときは、しんどいことも沢山ありましたが、ある程度守られた生活を送っており、危機感はほとんどなかったと記憶しています。
修行を終えて、自分の拠点となる教会をもった瞬間にとんでもない危機感がやってきました。
拠点となっているのは自分自身が慣れ親しんだ場所なので、ある程度分かってはいたつもりでした。
しかしそのときになってようやく「あ、俺この教会いついての認識甘かったわ。マジでこのままじゃヤバいわ」という気もちになったのです。
危機的な状況に立たされてはじめて勉強を開始し、新たな活動を模索し始めました。
LINE創設者の森川亮さんは「人を育てるときに大事なこと」を語ったときに、こんなことを話されています。
「自分には足りないものがある」「このままでは誰にも必要とされない」と気がつくまで放置した方がいい。
それに気がついた時、はじめて人は真剣に学び始めるからです。
(森川亮『シンプルに考える』)
拠点となる教会に身をおいたとき、まさに僕も「自分には足りないものがある」と感じていました。
それは勉強です。
どう考えても教会を立て直すには、知識(考える材料)がなさすぎるということが、肌感覚で分かりました。
なので、そこから毎日関係のありそうな本を読み始めたのです。
「本山で修行していたときのほうが読む時間があったのに、なんで俺は気がつかなかったんだ」と、かなり反省もしました。
しかし、人間は本物の危機感がないとなにもスタートしないということに気がついた瞬間でした。
あまり自分の中で言語化できていなかったのですが、この本を読んで改めて危機感の大切さを実感できたのです。
新たなご縁をつくる
2つ目は、新たなご縁を作っていくということです。
以下、引用します。
驚くほど多くの僧侶が「新たな仏縁は、同じ宗旨を先祖から受け継いだ人とのみ結ぶことができる」という発想に留まっていますが、これは経営の視点から言うならば、新規顧客開拓という考え方をまったく持っていないということに等しいのです。
たとえるならば、一度も自分で種まきをしたことがなく、ただ先祖が作ってくれた畑に実った果実を食べることしかしらないようなものです。
(松本紹圭 井出悦郎『お寺の教科書』徳間書店 86頁)
先祖が作ってくれたご縁だけに甘んじず、自らもご縁の種まきをする。
これももう僕にむけて言っておられるんじゃないかと思うくらい思うことがありすぎて、激烈刺さりました。
わたしが今担当している教会は、人数こそ多くはありませんが、ありがたいことに信者さんが数名おられます。
しかし、そのどなたも僕が自らお誘いして信仰をされている方ではありません。
みな、先代の会長さんが導かれた人ばかりです。
“ただ先祖が作ってくれた畑に実った果実を食べる”ことしかしてこなかったと大反省しました。
もちろんだからといって、そんな簡単に信者さんができたわけではありませんが、自らも種まきをすることの大切さを再確認できたことが大きかったように思います。
信者さんを増やそう増やそうとすると、逆に増えなさそうだなと個人的には思っています。
たとえるなら、「彼女が欲しい」とガツガツしてるやつの方が逆にモテない。みないな感じかな。
周囲の人とゆる関係をもつような感覚で、僕自身も教会に人がつながる種まきができたらいいなと思っています。
自分の言葉で語ることの大切さ
3つ目は自分の言葉で語ることの大切さです。以下、引用します。
仏教の大切なところは、人から人へ直接にしか伝達されないのではないかと思います。
(中略)伝統仏教がお寺の魅力を取り戻すには、宗祖のことばをただ繰り返すのではなく、自分のことばで生きた仏教を語り、自らが仏道を生きている住職の存在が欠かせません。
(松本紹圭 井出悦郎『お寺の教科書』徳間書店 86頁)
仏教の教えを、自らの言葉で語る。
これも今自分が意識していることに近かったので、すごく共感できました。
というのも、数年前に僕も師匠からおなじことを言われたからです。
「人に教えを説くときに、教典をそのまま読んだらどうなるだろう? おそらくみんな寝てしまうと思う。
自分の血の通った言葉で、信仰していてありがたかったという感動をそのまま伝えることが大切なんだ」
と教えてもらいました。
また、僕の大好きなお坊さん、松山大耕さんも公演の中でよく話されることが「自身を語れ」ということです。
YouTubeから数多く出ている話から内容だけをまとめます。
2016年にアッシジっていうイタリアの町で、今のフランチェスカ教皇が主催された宗教者会議が開催された。
そこに妙心寺の当時の官長にご招待があり、松山さんも付き人として同行。
そこでパネルディスカッションの後に、質疑応答の時間があった。その時に、松山さんが質問したのが
「宗教者会議は、そもそもヨハネ・パウロ二世が宗教者会議を開かれた30周年というので開かれたが、この30年間で宗教界に何があったのか。
相変わらず宗教間のいざこざはなくならない。
しかしそれ以上に、今この30年で深刻な問題がでている。
それは無関心じゃないか。神様・仏様がいらない。
これはキリスト教だけじゃなくて仏教でも、イスラム教でもメジャーな宗教がほとんどそういう状態で、いわゆる無神論者という方が、特に若い世代で世界のマジョリティになっている。世界のマジョリティの人たちがそういう状態であるにも関わらず、こうやって宗教者が集まって、こうやって宗教者が会議をすることに何の意味があるんでしょうか? と質問。
そしたら色々こうあったのち、最後にローマ教皇が、これはお坊さんに向けてじゃないが、現代を生きる神父さんに向けてお話しして下さった。
今の神父がやらなればならないことは2つある。1つは教会からでること。
教会の中にいたらキリスト教が好きな人は来るし、神父さんのお話を聞きたいって人は来るけど、そうじゃない人は絶対来ないと。
来ても写真撮ってSNSにあげて終わりだ。観光で終わりであると。
まず自分から出ていかなければいけないんだと。
2つ目やるべきことっていうのは、そういう宗教に興味のない人たちに話をする時には、聖書の言葉を使うなと仰った。
何百年前の偉い人の話をただ単に引用しても、なんのリアリティもないと。そうじゃなくて、自信を語れと仰ったんです。
この話が個人的にめちゃくちゃ好きです。
これはキリスト教の牧師さんだけでなく、多くの宗教者が大切にしていく必要があると感じます。
これらの話から、僕自身も「自らの言葉で話す」「自身(の宗教体験)を語る」ということを重視するようになりました。
まとめ
前編はこのあたりで終わります。
今回は松本紹圭さん井出悦郎さんが書かれた『お寺の教科書』の書評を書きました。
兎にも角にも、うちの教会の代表にも配って歩きたくなるくらい、いい本です。
まきのりのグッと来たところ3選
- すべては本物の危機感から始まる。
- 先祖が作ってくれたご縁だけに甘んじず、自らもご縁の種まきをする
- 仏教の教えを、自らの言葉で語る
後編では、お寺としての取り組みの一つとして提案されている「寺報」について、自分が今行っている活動を交えながら語っていきます。
オススメの1冊なので、よかったら手にとってみてください。
以上、「【お寺の関係者じゃないけど勉強になりました】『お寺の教科書』を読んだ感想」という話でした。
コメント