



今回は宗教と武道という視点から「災難に遭いやすい人」の特徴を考えていきましょう。
「俺ってなぜかトラブルに見舞われるんだよね」
と、いう人が周りにいませんか?
なぜだか分からないけど他人と喧嘩になったり、事故に遭ったりする人。
僕の周りにも少なからずいます。
今回はそんな人の特徴を宗教と武道という視点から考えていきたいと思います。
自分自身の2つの体験
ここからは僕自身の体験を2つ紹介します。
後ろから急接近してくる車
以前、車で二車線の高速を運転しているときに、なんとなく嫌な予感がしました。
サイドミラーで後ろをみると、右斜め後ろから僕の車に向かって1台の車が急接近していました。慌ててクラクションを鳴らします。
すると車は、ハンドルを切り元の車線に戻っていった。おそらくよそ見をしていたのだと思います。
いや~危なかった。
あとちょっとで事故になるところでした。
こんなとき、僕の信仰している宗教では「神さまが大きな災難を小さく、小さな災難を無いものにしてくれた」と言います。
小さな災難が無くなった場合、何も起こらないので人間には分かりませんが、そうやって神さまに守られながら生活をしていることを忘れずにいたいものです(忘れてるけど)。
喧嘩をするおっちゃんとお兄さん
また別のときですが、電車から降りたときにこんな経験をしたことがあります。
ある駅で降りて歩いていると、前のおじさんとお兄さんが何やら口論をしていました。
どうやらどちらかの体がぶつかったようです。
それを「お前がぶつかってきたんじゃないか」とかなんとか言って喧嘩していました。
その後は二人とも喧嘩しながら別方向に消えていったので、どうなったかは分かりません。
しかしどちらか一方でも気をつけていれば、おそらく避けられ災難だと思います。
無かったであろう災いが、逆に小さな災いになってしまっていました。
これがヒートアップすれば、さらに大きな災いになることでしょう。
これまで色々な人を見てきましたが、同じように生活していても災難が多く降りかかってくる人というのがいるように思います。
また逆パターンもあります。
あまり災いが降りかからない人もいます。
これは科学的な証拠がありませんが、どんな人が災いを避けられるのかということを話していきたいと思います。



参考にする本の紹介
ここから参考にするのは内田樹先生の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』です。
また、内田先生の他の本も参考にさせていただきます。
内田 樹(うちだ たつる)
1950年東京生まれ。
神戸女子大学名誉教授。
専門はフランス現代思想、映画記号論、武道論。
【本書の内容】
日本人の身体に対する文化を再考し、よりよい人生を送るためのポイントを提案した1冊。
内田先生が考える災難を減らすために大切なこと
まずは、内田先生が考える「災難を減らすために大切なこと」を見ていきましょう。
内田先生は災難(トラブル)が起きないようにするためには、
- 身体的な感知能力を身に付ける
- 節度を保つこと
が必要だと話されています。(これは本書を読んで、勝手に僕がまとめただけですが)
こういう特徴を持っている人は災難に遭いにくいんだと。
これだけでは分からないと思うので、1つずつ紹介していきます。
身体的な感知能力を身に付ける
まず「身体的な感知能力を身に付ける」とはどういうことなのでしょうか。
内田先生は、侍を例にして説明されています。
昔の侍は、身体感覚が非常に高かったそうです。
とくに後ろ方向への感覚が鋭かったと。
それは「紋付き」と「佩刀」が影響していると本書に書かれています。
まず紋付ですが、紋付には五つの家紋が描かれているが、そのうちの三つは自分の背中側についているそうです。さらに一番大きな家紋は背中に付けられている。以下、引用します。
つまり家紋は三対二の比率で、「後ろから見られるもの」なのです。
家紋は、背中に背負う家格の象徴です。気安く触られたり泥をつけられてはいけない、非常に大切なものを背中の真ん中に背負っていたわけです。
人間が身につけている一番大切なものは、「自分で見ることができずに、他人から見られるだけの部位」に貼り付けられていたのです。
これは昔の武士の身体感覚を想像する時の一つの手がかりになると思います。
武士が歩いているとき、その意識は「背中」にあったということです。
(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫 112.113頁)
武士は常々「背中」を意識していた。
これに加えてお侍さんは、腰に刀まで差しちゃっています。
これがまた武士としてはすごく大事なものなので、気安く触れさせないように常に身体の周りには気を使っていたのだと内田先生はいいます。
佩刀をしている場合でしたら、さらに左後方の空間に二尺何寸かの鞘が突き出しています。
ご存じの通り、鞘を当てるのは不作法の極限です。自分の刀に鞘当てされた場合は、すれ違った瞬間に「無礼者」お言って切り捨てるのも「あり」、というほどの不作法なのですから、刀を指している人間は必死です。(中略)
そうやって昔の人は、視野に入ってこない背面に対しても、絶えず意識を張り巡らしていました。
(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫 113.114頁)
刀をさしていたので、視野に入らない部分も意識していた。
こうして身体的な感知能力をみにつけることにより、事前に小さな災いを避けていたと言えます。
内田先生は合気道という武道を習っておられます。
なんの本かは忘れてしまいましたが、なぜ武道を習うのかという問いに対して、「武道を習っているのは、武道を使わなくていいように武道を習っている」といっていました。
う~ん、深い。
身体がかなり速い段階で危機を察知して、それを回避しているということです。
これも身体の感知能力を高めることと関係がありそう。
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』にもこのような記述があります。
学校で行われる体育は、一〇〇メートル何秒で走るとか、何メートル跳べるかとかそういったデジタルに数値化できる身体能力だけに焦点を合わせています。
確かに、そういう能力もライオンに追われるような場合に「動物としての人間」が生存するためにたいせつな能力ではありますが、それと同じくらいに、あるいはそれ以上にたいせつな身体能力は、「ライオンがいそうな気配を事前に感じる」能力でしょう。
(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫 131頁)
危険が訪れたときにそこから逃げる能力も大事だが、そもそも危険な状況に陥らないように、危ない気配を感じ取って近寄らないようにする能力はもっと大事
これはめちゃくちゃ大切なことです。
だってライオンに遭遇しないのが一番なんだから。
逃げるということすら必要ないわけだし。
ただそれを感知する能力なんて数値化できないので、学校教育には取り入れるのは難しいのだと思います。
というか、この感覚って僕が信仰をする中で言っている「大きな災難を小さな災難にしてもらっている」という感覚に近い気がします。
ひょっとしたら同じことを別方向から言っているのかもしれません。
また、現代でもこのように感知能力の高い人はいるようです。
こういうふうな身体能力の高い人というのは、たとえば、町の中を歩いているときでも、すぐ分かります。
人にぶつからないで、ほんとうにうまく歩いていますから。前から来る人の何秒後かの動きを予測しながら歩いています。
視野が狭い人は、自分のすぐ前しか見てないので、すぐ肩がぶつかったりしますね。
(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫 118頁)
意識を広げるという身体能力が高い人は、人にぶつからない。
たしかに、この身体能力を最大限に発揮することで、災いは相当防げそうな気がします。
数値化できないので、「そんなもん無いだろ」と言われそうですが、僕はこういうのあると思っています。
節度を保つ
そしてもう一つは「節度を保つこと」が大事だと語られています。
こちらも引用します。
「品格」なんていうと、なんだかずいぶん仰々しいものに思えるかもしれませんが、「品」というのは、要するに「らしさ」の内側にあえて踏みとどまる節度のことです。
生きていくとき、僕たちはさまざまなトラブルに遭遇します。
人に傷つけられることもありますし、人を傷つけてしまうこともあります。そういう機械は最小化するほうがよいというのが、「らしくふるまう」ということの目的です。
(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫 192頁)
節度というのは、平たく言えば、無用のリスクは回避する、ということです。
ほんとうに必要なときに自分の能力を最大限発揮できるように、どうでもよいことのためには持てる資源を無駄遣いしない、というのが武士の心得だったのです。
品のよい人というのは、節度を知る人のことです。
(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫 193頁)
節度を知る人=品のよい人
節度を知る人は無用のリスクを回避できる
たとえば、先輩、後輩の関係というのもそんなものではないでしょうか。
後輩は、節度を保って先輩と関わることで様々なリスクを回避しているように思います。
もし後輩が「なんだこら、ちょっと歳が上だからっていい気になってんじゃねぇよ」なんて節度のないことを言おうもんなら、即喧嘩でしょう。
そういう意味で節度を保つというのは、非常に大切なことだと思います。
またこれは先ほども挙げた車の運転の場合でもそうです。
- 自分はこれくらいのスピードならある程度コントロールできるという節度。
- 自分は遅いから、登り坂は登坂車線を走ろうという節度。
- 交通ルール内で走るという節度。
こういう節度を守る人は、災難(事故)に遭いにくいように思います。
そう考えると「節度を保つ」ということも非常に大切な要素です。
信仰によって災難を減らすために大切なこと
さて、ここからは僕の考察です。
はじめに信仰をしていると神様が、大きな災難を小さな災難へ。小さな災難を無いものにしてくださる。
といいましたが、内田先生の話を聞いて、もう少し勝手な解釈を加えたいと思います。
先にも述べたほうに内田先生はトラブルに起きないようにするためには、
- 身体的な感知能力を身に付ける
- 節度を保つこと
が必要だと話されています。
これは信仰という視点からいうとどのような事なのでしょうか。
まとめると
【信仰者まきのりの視点から大事だと思うこと】
- 人を気づかえる心があること
- 自分の心を省みて、分別を持てる人こと
ということだと思います。
こんな人は信仰者から見てもトラブルに巻き込まれにくいと思います。
こちらも一つづつ見ていきたいと思います。
人を気づかう心
まず「身体的な感知能力を身に付ける」という点から話したいと思います。
それは信仰をすると「人を気づかう心」によって意識を身体の外側に広げることができるということです。
そしてその身体の外側に広がった、感知するセンサーが「災難」「危険」なども事前に察知してくれるようになるんじゃないかなと。



とはいっても、そんな感知センサーなんて測定できませんし、根拠となるようなデータってとれないと思います。
しかしこの感知センサーってある程度鍛えられるんじゃないかととも思うんです。
しかも宗教の修行を通して。
ここで例として千日回峰行というめちゃくちゃ厳しい修行をした塩沼さんという僧侶が講演会の中でされていた話を紹介します。
その部分を引用します。
今、私がなぜお坊さんでいられるかなと思うと、やはり自分の人生の師匠である五條順教師匠がいたからかなと思います。
若いときに師匠にお世話になりまして、そして一番に初めに言われたことに私びっくりしました。「弟子に教えるものは何もない」と。
「後ろ姿から学び取ってもらうしかないんだ」と。
こっちはもう難しい勉強と厳しい修行を教わりにいったのに、一番初めに「わしは弟子に教えるものはない」と言い切って、「ただ一つだけ教える、今晩うちに来い」と言われて、「はい」って、でご飯の時です。
「君はまだ酒の席は体験したことがないな」と言われて、「はい」「酒の注ぎ方を教えよう」っていって盃を交わすわけですね。
それで師匠のお酒がなくなったと思って「師匠お酒どうぞ」といったら「バカ野郎」というんですね。
「今私が飲んで、無いのがわかってここにおいてから酒を注ぐとはなんだ」と。「わしがご飯を食べているのに、その箸を置いて、その手間をわしにかけるではないか」って言うんですね。
「これはもう最後の一滴を飲み干したときに『どうぞ』『おお、そうかそうかありがとう』とな。わしはこれを1人で10人は接待できるぞ」と。
「これは今日はガラス(のコップ)やけれども、陶器やったら見えないな」と。「わしは全部見える。これができるようになったら素晴らしいリーダーになれる」って。
師匠が「君に教えられることは、ただそれだけだ」って言って、酒の飲み方しか教わんなかったんですね。
で、実際どうだったかっていうと、自分の弟子にも一緒のことを言ってますね。
この話で僕が大事だと思うのは、大阿闍梨のお師匠さんも飲みの席を通して、「人を気づかう心」を身体の外側に広げているということです。
「あの人のコップはもう空ではないか」ということを絶えず気にして、センサーの感度を上げる修行をしているのだと僕は読み取りました。
これは先にあげた内田先生の「身体的な感知能力の高い人」と述べたことに、どこかで繋がっているように思います。
どちらも自分の外側にセンサーを張っているからです。
それにより、事前に危険も察知できるのです。
僕が後ろからくる車を察知できたのも、普段から「人を気づかう」訓練をしてきたことが大きな要因ではないかと勝手ながら思います。
そう考えると、宗教の修行というのは、自分の身体のセンサー感度を高める修行であるともいえるのではないでしょうか。
自分の心遣いを反省して分別をもつこと
次に「節度を保つこと」について考えていきたいと思います。
これは、自分の心遣いを反省して、分別をもつとも言い換えられそうです。
僕が信仰している宗教にも、反省して分別をもつことの重要性が説かれています。
大きく八つに分けた分別をもつためのポイントが説かれています。
たとえば
- 節操なくなんでも欲しがっちゃいけない
- 恨みの心を持たないように
- 自分のプライドを持ち過ぎない
とかいうことです。
こういう神様の教えを守ることで、神さまから護ってもらえる。
そういう教えなのです。
たしかに先にあげた、電車のホームで喧嘩している二人がお互いに「あ、すみません」と言い合ったら、トラブルにはならなかったわけです。
そう思うと、この日頃の心遣いを反省しつつ「節度を保つ」「分別をもつ」というのは大事だなと。
せっかく身体に感知するセンサーがある人でも、よけずに当たって起こっていては結局一緒です。
こちらも武道と近いものがあるなと感じます。
宗教と武道というのはそういう意味で似てるのではないかと思います。
こうして宗教を武道という視点から見ていくと、なんだか「大きな災難が小さくなる」ということが、当たり前というか「そら、そうだよな」と思えるようになってきました。
しかもそこに神さまの護りが入ったら、そりゃ災難は減るよねと。
個人的に感動したことだったので、長々と語ってしまいました。
まとめ
今回は内田樹先生の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』を参考に話を進めてきました。
〇内田先生が考える災難(トラブル)が起きないようにするのに必要な事
- 身体的な感知能力を身に付ける
- 節度を保つこと
〇まきのりが考える災難が起きないようにするために必要な事
- 人を気づかえる心があること
- 自分の心を省みて、分別を持てる人こと
今回参考にした本です。
良かったら手にとってみてください。
以上、「【宗教と武道から考える】身の周りに起こる災難が少ない人の特徴」という話でした。
コメント