つらい時は誰にでもあります。
そんな時、何か支えが欲しいと思ったことが1度はあるのではないでしょうか。
僕自身は、信仰がつらい時の支えになっています。
もともと教会を預かる親の子どもとして生まれ、小さい頃から信仰が身近でした。そのため、自分のなかに自然と心の支えができてきたように思います。
これを読んで下さっているかたの中にも、身近な人の影響で、幼い頃から信仰心を養っているというかたもいるかもしれません。
さて、今回は信仰をしていない人に「つらい時に自分の支えが欲しいです」と言われら、信仰者としてどう答えるかを考えていきたいと思います。
参考にする本の紹介
参考にするのは釈撤宗さんの書かれた『宗教は人を救えるのか』です。
まずこの本についてざっくりと紹介します。
釈 撤宗(しゃく てっしゅう)
1961年、大阪生まれ。
龍谷大学大学院博士課程、大阪府立大学大学院博士課程修了。
浄土真宗本願寺派如来寺住職。
本書の内容
生きていく上で人間が直面する「老・病・死」という悩みに、宗教がいかにアプローチできるのかを考察した1冊。
仏教だけでなく、キリスト教、イスラム教、儒教など幅広い視点から、安らぎを得るために考えていくべきことが語られている。
今回は、本書の中のごく僅かな部分のみの話をします。
「つらい時に自分の支えとなるものが欲しい」という、一般のかたの質問に対する、釈さんの考えがめちゃくちゃグッときたので、その部分のみを参考にしました。
ただ、この本全体を通してすごく面白いのでオススメです。
特にオススメしたいのが
- 信仰を通じて人を救けたいと考えている人
- 「老・病・死」に対する各宗教の考え方を知りたい人
- 身近な悩みに対して、釈さんがどうアンサーを送るのか知りたい人
という方々です。ぜひ本書を手に取ってみてください。
では次章では、まきのりがグッときたところを紹介していきます。
まきのりがグッときたページ
つらい時の心の支えをもつにはどうしたらいいか
僕が最高にグッときたのは、今回紹介している本、『宗教は人を救えるのか』の第4章「身近な悩みに、仏教はどこまで寄り添えるのか」の1部分です。
この章は、一般のかたの身近な悩みに対して、お寺の住職という立場から釈さんが答えています。
その中に
という質問がありました。
これに対する釈さんの答えを引用します。
最初に厳しいことを言うようですが、つらいときだけ活用できるような都合の良いものは、そもそも支えにならないと思われます。
つらいときの支えとして、どんなものをイメージしますか? たとえば、信条、信仰、家族、コミュニティなど、いろいろとありそうな気はします。
でも、どれひとつとしてインスタントにゲットできないものばかりです。倦まず弛まず、薄紙一枚一枚積んでいくような道程の結果、よりどころとして発揮されます。
引用:釈 撤宗(『宗教は人を救えるのか』角川SSC新書(191.192頁)
引用のポイントを3つにまとめると
- そもそもつらい時だけ活用できるようなものは、支えにならない
- 支えになるようなものは即席ではできない
- 支えになるものをゲットするにはむしろ手間がかかる
ということです。
僕自身も「自分ならどう答えるだろう」と考えながら読んでいましたが、この「そもそもつらい時だけ活用できるようなものは支えにならない」という部分は、衝撃的でした。
自分にはまったく考えもつかない発想でインパクトがすごかったです。
信仰に馴染みが深すぎるせいなのか、信仰が支えになるのは、つらい時だけじゃなくて、日常的に支えになっていることが大事。ということに気がつかなかったのです。
たしかに言われてみれば僕自身、信仰が支えになっているのは、どんな時も信仰を拠り所にしているからこそだと気がつきました。
もし自分の信仰が「困った時の神頼み」的な信仰だったら、気休めにはなるだろうけど、本当の意味での支えにはなってないだろうなと思います。
信仰の世界に長くいると(といってもまだそんなに長くないけど)、そこにいるが故に分からなくなることってあるんだなと感じました。
上の説明ではわかりづらいところもあるかと思うので、ここからは僕自身の体験から信仰が心の支えになったことを話していきます。
いい時も、悪い時も、神様に手をあわすということ
僕は数年前、身内の大切な人をなくしました。
亡くなった人がまだ若かったこともあり、その事実をすぐに受け止めることはできませんでした。
1か月ほど、息が吸えないような苦しさがあったことを今でも鮮明に覚えています。
しかし、少しずつではありますが気持ちを立て直すことができたのは、信仰のおかげでした。
僕が信仰している宗教の教えには「体は亡くなっても魂は生き続けて、またこの世に帰ってくる」という死生観があります。
この教えが、少しずつではありますが、僕の心に活力を注いでくれました。
「そうだ、またこの世で会える日がきっとくる」
そう思ったら、不思議と力が湧いてきたのです。
今思うと、何もない日常や、良いことがあった時も含めて神さまに手を合わせていたからこそ、信仰が支えになっていたのだと思うのです。
もしもこれが、困った時だけ神様にすがっていたら、支えにはなっていなかったと思います。
もちろん、はじめは困ったことがあって、信仰をし始めるという場合が多いと思います。ただその後には、地道な道があり、それこそが支えになるためには必要なのです。信仰はインスタント(即席)にゲットできません。
いきなり信仰の世界に入るのは難しい
断っておきますが、釈さんは「つらい時だけ活用できるようなものは、支えにならない」と厳しいことばをかけられるだけでなく、その後にきめ細かくフォローされています(笑)
仏教と言う馴染みがないものに、いきなり近づくことは難しいと理解した上で2つの提案をされています。その部分を引用します。
仏教に固執する必要はありません。馴染みのあるものをたぐっていきましょう。
(中略)
ただ、今回のように、自分のあり様へ疑問をもったとき、注意しなければならないのがカルト系の宗教や自己啓発のセミナーです。
引用:釈 撤宗(『宗教は人を救えるのか』角川SSC新書(192頁)
上の引用を2つにまとめると(もうまとまってるんだけど)こういうことかと思います。
- ひとつの宗教に固執する必要はない
- カルトには気をつける
この2つも個人的に、超絶納得しました。
このあたりは信仰を志す者として、知っておきたい考え方ではないでしょうか。
まず1つめの「宗教に固執する必要はない」ということについて話します。
僕自身も自分の信仰する宗教は「いいなぁ」とは思っていますが、だれかれ構わず入信したらいいとは思っていません(笑)
これはもともとプロ奢られヤーという人が言っていた話ですが、信仰を勧めるのって「生き方の服の試着をしてもらう」みたいなものなのではないでしょうか。
信念や支えとなるものがなく、世の中を薄着で寒そうにで歩いている人(困っている人)に「この生き方、試しに着てみませんか?」というのが信仰者の役目の1つなんじゃないかと。
その服によって、世の中のつらいことから守られるのなら、着てみたらどうでしょうか。嫌だったら脱いだらいいし。という提案をしている。そんな感覚です。
なんなら他所から良いものを探すこともあります。例えば少し前ですが、人間関係が上手くいかなかったときなどは、大ベストセラーとなった『嫌われる勇気』という本がとても参考になりました。
人間関係に悩んでるけど宗教はちょっと……と言う人にはこちらを進めています(笑)
2つ目の「カルトには気をつける」というのは、もうその通りです。
僕が信仰している宗教はカルトではない(そう信じたい)ですが、「隔離された状態をつくられる」ような場合には注意が必要だと、釈さんもおっしゃっています。
この機会に信仰している皆さんも、自分の宗教を振り返ってみるのもいいかもしれません。
カルトに関しては、また機会があれば勉強して詳しく書いていきたいと思います。
まとめ
今回は釈撤宗さんの書かれた『宗教は人を救えるのか』をもとに「つらい時に自分の支えとなるものを探すポイント」を考えていきました。
最後に要点をまとめます。
つらいときに、自分の支えるものを探すポイント
・そもそもつらい時だけ活用できるようなものは、支えにならない
・支えになるようなものは即席ではできない
・支えになるものをゲットするにはむしろ手間がかかる
支えを探すときに気を付けること
・ひとつの宗教に固執する必要はない
・カルトには気をつける
以上、「【信仰者が知っておきたい】つらい時に支えとなる精神的支柱を探すポイント」という話でした。
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